上尾の寺社 17 長久寺(原市)
「原市のお不動さん」で知られ神仏習合と寺子屋の名残をとどめる
「ぐるっとくん」を原市の「上新町」で下車し、市場町の面影が残る県道を南へ100メートルも歩くと、左手に氷川神社の鳥居と火の見矢倉が見えてくる。左折して神社の境内に沿って東へ100メートルほど行くと、もうそこは目指す長久寺(ちょうきゅうじ)である。江戸時代の建立であるが、本堂前左右の小さなお地蔵さんに迎えられてお参りすることになる。
長久寺は、天王山自性院と号する天台宗の寺院である。寺は、元は庵室(あんしつ)であったが、慶安年中(1648から52)に一寺になったと伝えられ、本尊は不動明王である。この不動明王は両脇侍(きょうじ)を従えており、木造寄せ木造り、像高64.3センチメートル、江戸時代中期の作である。「原市のお不動さん」で知られる同寺には、もう一躯(く)の不動明王が蔵されているが、こちらは光背(こうはい)・台座を含めた一木(いちぼく)造りで、江戸時代の小さな仏像である。本尊は江戸時代中期の作であるが、同寺に蔵されている木造阿弥陀如来座像は安土・桃山時代の作である。長久寺が成立した慶安年中より古い時代の作となるが、同寺の庵室時代から安置されていたものか、ほかから移されたものか、その点は不明である(『新編武蔵風土記稿』・『上尾市史』第9巻)。
ところで、江戸時代の原市村の鎮守は愛宕社であるが、中世までの足立郡の村々の鎮守はほとんど氷川社なので、原市村も同様であったとみられる。長久寺の西側にある氷川社の勧請(かんじょう)年代は不明であるが、原市村は古くは吉野原村(現さいたま市)と一村であったといわれるので、広域にわたる郷村の鎮守であったと考えられる。江戸時代までは神仏習合(しゅうごう)なので、この氷川社にも本地仏(ほんじぶつ)の正観音(しょうかんのん)が祭られており、寛保2(1742)年には社殿が再興されている。長久寺は氷川社に隣接しており、江戸期には別当寺(べっとうでら)の役割を担っていたものとみられる(『新編武蔵風土記稿』)。
道路をはさんだ本堂の西北方に同寺の墓地があるが、歴代住職の墓域に参拝すると、ひときわ大きな「筆子中」の文字が目に飛び込んでくる。住職であった智純(ちじゅん)の墓塔であるが、長久寺の寺子屋で教えを受けたかつての寺子たちが、明治の末年に建てたものである。師匠の智純は上州板鼻(いたはな)宿(現群馬県安中市)の出身であるが、長久寺で近在の子弟たちを教え、明治6(1873)年に没している。同年には各町村で公立学校が設置されるが、師をしのぶ寺子たちの思いは変わらなかったものとみられる。
長久寺
長久寺の本堂。左右の地蔵が参拝者を迎える