上尾の寺社 12 西光寺(中新井)
鎌倉期の「阿弥陀三尊立像」など多くの仏像を蔵する
「ぐるっとくん」を「中新井入口」で下車し、工場と住宅地が続くやや狭い県道を西南に400から500メートルも歩くと、突然南方に眺望が開けてくる。そして200メートルほど先に、目指す西光寺(さいこうじ)本堂の大屋根が眺められる。
西光寺は天台宗の寺院で、慈栄山光明院と号し、寺伝によると鎌倉中期に創立されたといわれる。重厚な山門をくぐり本堂に参拝することになるが、本堂の前面はガラス戸になっており、本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)を拝むことができる。ガラス戸越しであるが、鎌倉時代の創作といわれる「木造阿弥陀三尊立像(もくぞうあみださんぞんりゅうぞう)」の神々しさに、思わず圧倒される(『新編武蔵風土記稿』・『上尾市史』第9巻)。
「木造阿弥陀三尊立像」は市の指定文化財になっている。中尊の阿弥陀如来は脇侍(きょうじ)を従えており、向かって右側は観音菩薩、左側は勢至(せいし)菩薩である。この阿弥陀如来は、上品(じょうぼん)下生(げしょう)の来迎印(らいごういん)を結んでいるが、平安時代末期の末法(まっぽう)思想が広まる中で盛んになった阿弥陀信仰の形式を伝えるものである。阿弥陀如来は像高97センチメートル、観音は62センチメートル余りで、寄せ木造り、玉眼(ぎょくがん)の像で、彩色は後世の補修といわれている(『上尾の指定文化財』)。同寺には、ほかに多くの仏像が蔵されているが、「銅造薬師如来像懸仏(どうぞうやくしにょらいぞうかけぼとけ)」は近在でも珍しいもので、室町時代初期の創作とみられる古いものである。現在は、懸仏にする鏡板が失われ、厨子(ずし)に納められている(『上尾市史』第9巻)。
本堂の西側に歴代住職の墓所があるが、寛永14(1637)年と読める古い墓石が立ち並ぶ中に、大変新しい筆子塚(ふでこづか)が1基ある。明治24(1891)年1月没の大阿闍梨法印湛雄(だいあじゃりほういんたんゆう)と、明治25年8月没の権律師亮雄(ごんりっしりょうゆう)の墓石で、台石に「筆子中」の文字が鮮やかに刻まれている。筆子塚は江戸時代に盛んに造立(ぞうりゅう)されるが、明治期になっても師匠の徳をしのぶかつての寺子たちの思いは変わらなかったものとみられる。
ところで上尾市域は災害の少ない所であるが、大正15(1926)年9月4日に、大谷地区は大旋風に襲われ、西光寺の本堂は倒壊している。この大旋風は清河寺(せいがんじ)付近(さいたま市)から起こり、幅200メートルほどで、家屋・田畑をなぎ倒して東北進している。死者9人、重軽傷者71人、家屋倒半壊109戸という甚大な被害をもたらしており、上尾市域にとって珍しい災害事例である(『上尾百年史』)。
西光寺
静かなたたずまいを見せる西光寺本堂