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上尾の寺社  7 氷川鍬神社(宮本町) 

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年3月1日更新 ページID:0094019

江戸の知識人も招かれた「聚正義塾」

 氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は、かつては上尾駅東口に降り立つと境内の木立が望見できたが、現在ではビルの陰になってしまっている。それでも駅から200メートルも歩いて行くと、喧騒の中の静寂空間に木立が見えてくる。
 氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀(ごうし)以後の社名であり、古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ(1658~61年)創建されたともいわれる。伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林八郎右衛門であろう。童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追ておびただし」と伝承は伝えている(『新編武蔵風土記稿』・『御鍬太神宮略由来』)。
 御鍬太神宮は上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の「上尾郷二賢堂(にけんどう)碑記」と「雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)」が建立されているのが目に付く。これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している(『上尾の指定文化財』)。
 この地に創設された「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」は、天明8(1788)年に江戸で名の知られた学僧雲室上人を招いて開かれている。聚正義塾の堂舎は、宿内や近村の人々が資材を持ち寄り、労力を提供して建てられ、朱文公(しゅぶんこう=朱子)と菅公(かんこう=菅原道真)を祭ったところから「二賢堂(にけんどう)」と称されている(地元では「じけんどう」とも言う)。当時江戸の昌平黌(しょうへこう)の主宰者である林大学頭信敬(はやしだいがくのかみのぶたか)が、「二賢堂」という扁額(へんがく)を記しているが、開講日には、昌平黌の都講(とこう)(塾頭)で文人として高名な市河寛斎(いちかわかんさい)も招かれている。寛斎は門人の小島梅外(こじまばいがい)を連れて上尾に向かうが、このとき「雨夜上尾道中(あめのよのあげおどうちゅう)」という漢詩を記している。詩には「蕎花爛?野田秋(きょうからんまんたりやでんのあき)」と、美しい道中の風景を詠んでいる(『上尾市史』第3巻収録の『雲室随筆』、『江戸詩人選集』第5巻)。
 多くの著名な知識人の援助のあった聚正義塾であるが、雲室は3年ほどで江戸に去り、後は地元の文人でもあった山崎碩茂(せきも)が引き継ぐことになる。それにしても、郷学ともいえる公立的な学校が運営されたことは、地元の人々が教育熱心であったからであろう。

氷川鍬神社

上尾郷二賢堂碑記の写真

鳥居をくぐり境内の右手にある市指定文化財の「上尾郷二賢堂碑記」

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