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上尾の寺社 5 楞厳寺(瓦葺) 

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年3月1日更新 ページID:0094021

700年余の時を刻む「弘長の板碑」

 「ぐるっとくん」を瓦葺の「氷川神社」で下車すると、目の前に楞厳寺(りょうごんじ)の案内板がある。案内に従って石灯籠の並ぶ道を100メートルほど行くと、もう山門である。山門前には六地蔵が立ち並んで、参詣者を迎えてくれる。
 楞厳寺は曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院で、原市の妙厳寺(みょうごんじ)の末寺といわれている。『新編武蔵風土記稿』によると、開山(かいさん)は喜翁禅師(ぜんじ)で、同禅師は永禄7(1564)年2月8日の没となっている。従って同寺は、永禄7年以前に創建されていたことになる。同書には「本尊正観音(しょうかんのん)ヲ安置ス」とあるが、現在寺内に安置されている「木造聖観音(しょうかんのん)菩薩像」は江戸時代の作である。これは、寄せ木造り・玉眼であるが、漆箔(しっぱく)などは後に補修されたものである。楞厳寺は曹洞宗の寺院なので、道元禅師の座像も安置されているが、開山座像とともに瑩山(えいざん)禅師の座像も祭られている。瑩山は曹洞宗二大本山の一つである能登の総持寺(そうじじ)を開いた人なので、当時は同寺の配下にあったものとみられる。なお能登の総持寺は、明治になり横浜市鶴見に移されている(『上尾市史』第9巻)。
 享保6(1721)年の上瓦葺村々方明細帳には、わずかであるが楞厳寺のことが記されている。この記録によると、除地(じょち)として5反歩が楞厳寺持ちで、うち水田が1反2畝(せ)歩である。ほかに同寺抱えの除地が1反歩あり、これは地蔵免となっている。この記述からみると、同寺は古くから田畑を所有しており、これには年貢が免除されていたことになる(『上尾市史』第3巻)。なお、明治期に作成された『寺院明細帳』によると、境内敷地は897坪、本堂間口10間2尺・奥行き8間4尺とある。庫裏(くり)のほかに地蔵堂の所在も記されている(『上尾市史』第9巻)。
 楞厳寺に所在している文化財で、名の知られているものに「弘長(こうちょう)の板碑(いたび)」がある。これは、山門から本堂に向かって右手に安置されており、参詣者はいつでも拝観することができる。埼玉県内は板碑の多いことで知られるが、最も古いものは江南町に所在する嘉禄(かろく)3(1227)年銘のものである。楞厳寺の板碑には弘長元(1261)年9月21日と刻まれているので、県内最古の板碑からわずか30年後に造立されたことになる。江南町の嘉禄銘板碑は全国で最古なので、楞厳寺の板碑も大変古い時代を伝えるものといえる。この板碑は高さ105センチメートル、幅35.8センチメートル、阿弥陀一尊種子(しゅじ)板碑で、市指定文化財となっている(『上尾の指定文化財』)。

楞厳寺

楞厳寺本堂の写真

楞厳寺本堂。右手に「弘長の板碑」がある

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