上尾の古い地名を歩こう43 ~西門前地区を南下する~
「ぐるっとくん」を上平支所・公民館入口で下車し、主要地方道上尾久喜線を百メートルも西へ歩くと、右手に少林寺(しょうりんじ)の標柱が見えてくる。臨済宗(りんざいしゅう)の古刹(こさつ)で、旧門前村の村名発祥の寺でもあるので、まず参詣してから歩くことにする。この寺の開基は覚山尼(かくさんに)(北条時宗の妻)で、市内では珍しい鎌倉時代の創建である。威厳のある山門は、寛文十一(一六七一)年の建築であるが、市の指定文化財となっている(『上尾の指定文化財』)。
少林寺を参詣後また県道に戻り百メートルほど西下すると、左手に古道の小さな曲り角を見ることになる。区画整理が進んでいるこの辺りは、新旧住宅地の混在地である。左折して二百メートルほど歩くと、左手付近は「神楽」一座を主催した須田家の所在地域となる。この神楽は、須田兼吉が百年ほど前の大正初期に始めた一座で、「若松座」と称したという。兼吉は当初沖ノ上(現浅間台地区)の「共盛座」で神楽を学び、その後独立して一座を主催したものである。須田家一座は平成九年の上演を最後に解散しているが、同家にはおびただしい数の神楽道具・衣装が遺(のこ)されることになる。これが現在、「須田家の神楽用具」として市指定の文化財になっているものである。かつて神楽を支えた人々は須田家の近在に住んでおり、さしずめこの地域は「神楽の里」ともいうべきことになろうか(前掲書)。
ところで安政四(一八五七)年の「久保村須田家日記」をみると、久保・門前・南・上村の鎮守である氷川社の四月二日の祭礼に、神楽が上演・奉納されている。詳しい記述はないが、この日記によれば神楽は古くから上演されていたことになる。もちろん安政期には「若松座」は存在しないが、神楽奉納の風習が、大正期の須田兼吉による神楽一座の「若松座」の誕生になったとみられる(『安政四年久保村須田家日記』)。
現在、西門前地区は土地の区画整理を実施中で、古い道路は失われ新道が縦横にできつつある。神楽を主催した須田家所在地の五十メートルほど南には、JR北上尾駅に通じる広い道路が東西に走っている。それより南進し、やや曲折した道を進むと、約六百五十メートルほどで地区最南端に達する。地区内には区整理とともに新住宅地が数多く誕生しているが、それでもまだ各所に古くから屋敷森と、巨大な温室で農業経営をする家などを見掛けたりする。「神楽の里」も、目下変遷中ということになろうか(『上尾市地形図』)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)