上尾の古い地名を歩こう45 ~地頭方地区を縦断する~
「ぐるっとくん」を太平中学校南で下車し、十メートルも東進すると、右側に暗あんきょ渠で南へ伸びる一条の排水路を見ることができる。この排水路は浅間(せんげん)川の最上流で、戸崎地区で鴨川に流入しているが、平方領々家村と地頭方村の古くからの境界である。明治初期の資料で、長さ十二町余り(約一・三キロメートル)と記されたものが、この排水路に相当するとみられる。この排水路は南北に直線化しており、しかも村境になっているが、直線の村境はあまり例がなく大変珍しい。この村境は領家と地頭が並んでいるところから、鎌倉時代に荘園内で地頭が勢力を増し、荘園の土地を領家と地頭に折半する、いわゆる「下地中分(したじちゅうぶん)」に擬(なぞら)える見方もあるが、残念ながら資料は皆無で不明である。それにしても、地頭方と領家方が隣接して、やや人工的な直線の境界線を持っている事例は県内には他になく、大変珍しい事例ということになる(『上尾市史第二巻』・『武蔵国郡村誌』)。
浅間川上流の排水路から百メートルも東上すると、信号のある交差点となる。ここで右折して東南に進むが、この道は明治初年資料では「大宮道」と記されたものである。この交差点辺りの小字は「 三ッ塚(みつづか)」であるが、同様な小字は平方領々家村にもある。地頭方村にもいくつかの小字があるが、「カラン堂」という珍しいものもある。村の東南にある小字であるが、片仮名表記でどんな漢字を当てるのか不明である。この地区はかつて広大な山林を持っていたが、この小字名は「鶏久保(とりくぼ)」で、現在は自動車工場の敷地になっている(『武蔵国郡村誌』)。
三ッ塚の交差点から東南へ五百メートル余り歩き、梨畑に囲まれた細い道を右折すると地頭方公民館がある。隣接して墓所があるが、この辺りは明治初期に廃寺になった正円(しょうえん)寺の跡で、同寺は新義真言宗の寺院で境内に薬師堂があったといわれる。この薬師堂は、現在も公民館脇に残されている(前掲書)。
元の道に戻り百メートル余りも東南方向に歩くと、右手に氷川社の森が見えてくる。この神社は大きな狛こまいぬ犬が安置されていることで知られるが、旧地頭方村の鎮守である。明治初期資料では境内地は六百六十三坪(二千百八十七平
方メートル余り)、祭礼は十月十九日と記されている。ここでは“狛犬さん”に拝顔してから神社に詣でることになるが、近年住宅地化が進んでいるこの地区でも、鎮守の森だけは変わらぬ静寂空間が保たれている(前掲書)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)