上尾の古い地名を歩こう33 ~上尾宿から「幸手道」を歩く(上尾宿、上尾村)~
明治初年の地図を見ると、上尾宿、上尾村には広大な山林が記されているが、現在の市役所に近い「根貝戸(願戸)」集落にも、広い雑木林が集落の背後に所在している。そして芝川を挟んだ東の文化センター付近には、広大な松林が東南方向に展開している。この辺りの小字は「二ツ宮」であるが、この松林は鎮守の氷川社の森へと続いている(『迅速測図』)。
現在、県道上尾蓮田線は市役所前からほぼ直線で伊奈町境に達しているが、明治初年の地図にはそのような道路は見当たらない。ここではメーンとなる道路は氷川社付近に集中しており、幸手・久喜方面への道路もそこから分岐する形になっている。氷川社は当時「男体(なんたい)・女体(にょたい)」の両社があり、鎌倉街道もここを通り、原市・岩槻(現さいたま市)への道路も氷川社の森を通過している。これを見ると、氷川社付近は当時この地域の交通要衝の地であったことになる(前掲資料)。
市役所から県道上尾蓮田線を東上し、四百メートルほど歩くと芝川に架かる「道三橋(どうさんばし)」となる。この橋は、美濃の戦国大名・斉藤道三にちなむ伝承もあるが、歴史的な資料はまったく伝えられていない。道三橋から三百メートルも進むと、右側の理髪店の手前に、右折して東南方向に向かうやや細い道路が見える。右折して百メートルも歩くと、左手には二ツ宮共同墓地と二ツ宮公民館がある。さらに三百メートルも歩くと、氷川社のある変則五差路の交差点である。現在では、細い道路の交差点であるが、かつてはにぎわいを見せた要衝の地であったとみられる(『続史跡ある記』・前掲資料)。
氷川社に参拝し、五差路のうち、やや北東方向に向かう道路を歩いて見る。この辺りは旧原市村、上尾村、下平塚村の地が入り組んでいるが、四百五十メートルも歩くと左手の住宅地の四つ辻角に、一基の庚申塔(こうしんとう)を目にすることになる。嘉永五(一八五二)年閏(うるう)二月、下平塚講中(こうじゅう)の建立で、右側面に「東方 さって(幸手)・くき(久喜)・たかの(高野)」、左側面に「西方 あげを(上尾)・あきは(秋葉)」と道案内が刻まれている。「さって」は日光道中の幸手宿であるが、「たかの」は古利根川の渡し場で知られる下高野(しもたかの)村(現北葛飾郡杉戸町)とみられる。この庚申塔標示が、上尾宿からの幸手道が氷川社付近を通っていたことの証明であるが、現在の狭い道路からは往時のにぎわいをしのぶことはできない(『新編武蔵風土記稿』)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)