上尾の古い地名を歩こう37 ~菅谷地区を縦断する(菅谷)~
「ぐるっとくん」を「上尾税務署」で下車すると、庁舎東側に沿って流れる小排水路を見ることができる。この小川は芝川の城流であるが、主要地方道上尾久喜線に架けられた小さな橋を、古くは「西谷橋(にしやばし)」と称していた。菅谷地区の西方には「西谷」の小字(こあざ)があり、東方には「東谷(ひがしや)」の小字があるので、小字名に関係する橋名とみられる(『武蔵国郡村誌』)。
小排水路から主要地方道を東へ四百メートルも歩くと、南北道路と交差する小さな交差点があり、右手の角(かど)に庚申塔(こうしんとう)がある。文政七(一八二四)年の建立であるが、これには道標はないが、この細い南北の道路が続く北方には、二基の庚申塔がある。これには道標も記されており、この細い南北道路はかつての基幹道路であったことが推定される。
交差点を左折して北上するが、この辺りは工場と住宅が混在している。二百五十メートルも歩くと、屋敷森のある家も見えてくるが、ここは旧菅谷村の小字「新田(しんでん)」である。近世期の菅谷村は村高(むらだか)五百石余であるが、「中地(なかじ)・上組(かみぐみ)・下組(しもぐみ)・新田」の四つに分かれ、それぞれの地区に名主がいて統治されている。これは支配者に旗本が四人もおり、いわゆる相給(あいきゅう)村であったため、名主が四人おり四地区に分かれていたものとみられる(前掲書、『天保郷帳』)。
屋敷森のある集落の交差点から三百メートルも北上すると、工場に面した東西道路と交差する。交差点の右手に南面して安永七(一七七八)年の庚申塔を見ることができるが、ここでは東面した右手に「此方(このほう)、くき(久喜)・さって(幸手)道」、左手に「此方、おけがわ(桶川)道」と刻まれている。細い道路で、明治初年の地図では人家もない所であるが、村の中での主要な交差点であったことになる(『迅速測図』)。
工場に対面している庚申塔から二百メートルも北上すると、山林地帯の入り口で道は左右に分岐している。弘化二(一八四五)年のもので、右方に「此方せうぶ(菖蒲)・きさい(騎西)」左側面に「右はら(原)市・左かうのす(鴻巣)」と記されている。この道標から見ると、現在は細い道路であるが、市場町原市から鴻巣宿・騎西町への幹線道路であったことをうかがうことができる。この庚申塔から左手の道路を歩くと、住宅と山林が混在しているが、四百メートルほどで倉田村(桶川市)境に達する。鴻巣宿はまだ二里ほども遠方である。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)