あげお写真館
この『あげお写真館』で、皆さんの記憶から忘れ去られてしまおうとしている古き良き時代の上尾の姿をあらためて振り返り、これからの新しい時代の上尾の魅力を育んでいただきたいと思います。
上尾市
昭和37(1962)年 の上尾市 → 平成10(1998)年 の上尾市
一番通り
昭和31(1956)年の一番通り共進会 → 平成10(1998)年の一番通り
一番通りを南に向けて撮影したものです。昭和31年当時の一番通リには一番通り共進会という商店街がありました。写真はその商店街の大売り出しの時に撮影されたものです。商店街の周りには、まだ雑木林や畑がたくさんありました。 一番通りは、宮本町と仲町にかけて中山道と平行した約1キロメートルの通りの通称です。市内でも早くから舗装されたこの通りは、中山道に次いで交通量の多い通りでした。
夏まつり
昭和37年(1962)年、上尾地区5町内の夏まつり → 平成10年(1998)年 → 平成22年の上尾夏まつり
上の写真は昭和37年7月に撮影された旧上尾地区5町内の夏まつりの様子です。この夏まつりは、市制施行5周年記念とこの年5月の大宮バイパス(国道17号本線)開通を祝して中山道を舞台に行われたものです。
午後1時に上町、宮本町、仲町、愛宕町、柏座の大小の神輿(みこし)が氷川鍬神社に参集しました。そろいの法被(はっぴ)をまとった若者が神輿をかつぎ、3時間あまりの間、元気いっぱいに町内を練り歩きました。
平成22年に旧中山道やJR上尾駅東西口を中心に開催された上尾夏まつりには、梅雨明けを思わせる暑さにもかかわらず8万5千にんの人出がありました。歩行者天国となった中山道でにぎわう露店には子どもたちもお祭り気分いっぱいになりました。8町内の大人神輿(みこし)が駅東口に入ってくると、多くの人がその勇ましい姿に見入りました。
開平橋
開平橋は、県道川越・上尾線の荒川に架かる橋です。江戸時代に舟運で栄えた平方河岸には、明治16(1883)年までは渡し船がありました。この年に交通量の増大から、それまでの渡し船をやめて、川に船を並べた上に橋げたを載せた初代の船橋(後に開平橋となる)が完成しました。
昭和44年(1969)年 → 平成10(1998)年
上の写真は、その当時の船橋の位置から少し下流に造られた昭和44年ごろの木造の開平橋を荒川左岸から西に向け撮影したものです。現在の全長816.8メートルを誇る橋は同52(1980)年に永久橋として架けかえられたものです。
学校給食
昭和37(1962)年 → 平成10〈1998)年
上の写真は、脱脂粉乳とコッペパンの懐かしい給食です。昭和37年2月、中央小学校での給食開始日の様子を撮影したものです。
現在は、小学校にランチルームなどが設置され、主食も米飯が多くなったほか、バイキング給食も取り入れられています。
平成5(1993)年1月には、中学校給食共同調理場の完成により、中学校でも自校調理場プラス共同調理場方式で給食が始まり、昭和31(1956)年に上尾小学校で完全給食を開始して以来、市内のすべての小・中学校33校で学校給食が実現しました。
瓦葺の掛樋(かけどい)
昭和30(1955)年 → 平成10(1998)年
上の写真は市の東南端・瓦葺と蓮田市境の綾瀬川と見沼代用水が交わる所に架けられていた掛樋(明治41<1908>年製)を昭和30年代前半に瓦葺地内から蓮田方向に撮影したものです。綾瀬川の上に架けられた橋の上を用水が流れる川の立体交差の掛樋は、享保13(1728)年の完成から昭和35年まで使われていました。
現在は、見沼代用水が綾瀬川の下をくぐる伏越(ふせこし)という形になっていますが、今も綾瀬川の両岸に残されているレンガ製の橋脚台が往時をしのばせます。
議会
昭和31(1956)年 → 平成10(1998)年
昭和30(1955)年12月に6町村(上尾町・平方町・原市町・大石村・上平村・大谷村)合併後初めて町議会議員選挙が行われました。
上の写真は翌年の8月、新上尾町の議員30人を召集して開かれた臨時議会の様子です。場所は上尾農協(現JAあだち野上尾支店)の会議室で議員同士が向かい合って座わり、当日は定例会を年4回、常任委員会を4つとする条例などを審議・議決しました。
現在は広い議場で議員と執行部側が向かい合って議論を交わしています。
国道17号線
昭和37(1962)年、市役所西側の国道17号 → 平成10(1998)年の大宮バイパス(国道17号本線)
昭和20年代末から、中山道を通る自動車の量が急増したため、同30(1955)年、当時の上尾町長を会長とする大宮・熊谷間国道整備促進期成会が結成され、大宮・鴻巣間の国道新設を建設省に請願しました。やがて、建設省から国道17号バイパスの建設案が示され、同34(1959)年に工事に着手し、同37年5月に開通しました。
現在の大宮パイパスは上越方面と首都圏を結ぶ主要道路として交通量も多く、一向に減らない交通事故に対処するため、同49(1974)年には中央分離帯を設置する工事が行われました。
市民体育祭
昭和33(1958)年、上尾小学校校庭で行われた第1回市民運動会 → 平成10(1998)年第38回市民体育祭
昔の写真は、市民体育祭の前身の第1回市民運動会の様子です。昭和33年11月、市制施行の年に上尾小学校で開かれました。
平成17(2005)年で47回目を迎えました。現在では、上尾運動公園陸上競技場を会場として行われていますが、この競技場は、同42(1967)年の埼玉国体の主会場でした。同51(1976)年には“スポーツを通して市民の交流を深め、健康で明るい郷土づくりをしよう”と「スポーツ都市」を宣言した場所でもあります。
市役所
昭和初期(昭和7〈1932〉年発行の絵はがきから) → 昭和41(1966)年 → 平成10(1998)年
市民サービスの拠点市庁舎。その“初代”に当たるのが上の写真の建物で、昭和初期に撮影された上尾町役場です。役場は明治のころには現在の氷川鍬神社(宮本町)内にありましたが、昭和3(1928)年4月に現在地に移転しました。写真の中の自動車は現在の庁舎南側を通る県道を走っているところです。この建物は昭和33年まで残っていました。
中央の写真は一代前の庁舎で昭和42(1967)年10月に開催された埼玉国体に合わせて建設され、昭和41(1966)年11月に完成しました。
現在の庁舎は平成5(1993)年11月に1期・2期工事のすべてが完成(行政棟・議会棟は同年11月に完成)、現在地(本町三丁目)では5代目の庁舎となります。
市役所通り
昭和39(1964)年、上尾駅に向けて撮影 → 平成10(1998)年
昭和39年以前は、中山道(上尾駅前)から市役所まで伸びる真っすぐな道路がありませんでした。そのため、市役所へは旧市役所通リ(写真左側の道路)を通らなければなりませんでした。上の写真は、道路が貫通した同39年6月に撮影されたものです。家屋の移転などもあり、同34(1959)年に着工してから6年の歳月を費やして完成しました。開通した当時は、道の両側に瓦屋根の家が並んでいました。
現在では、商店が軒を連ねています。
市立上尾病院
昭和39(1964)年まであった市立上尾病院
上の写真は、柏座にあった市立上尾病院で、昭和39年に撮影されたものです。この病院は、同25(1950)年に上尾町立として開設されベッド数約30床、医師、事務職員など20数人の規模でした。町立上尾病院は同33(1958)年7月の市制施行に伴い市立上尾病院と改称し、その後も市で経営を続けていましたが、同39年3月さまざまな事情から経営を打ち切りました。この病院のあった場所は、現在上尾中央総合病院となっています。
消防署
昭和33(1958)年、中山道沿いにあった上尾町消防団 → 平成10年の上尾市消防本部
市民の生命と財産を守る活動拠点の消防署。その前身である上尾町連合消防団は、昭和30(1955)年上尾町の誕生と同時に発足しました。同33年、名称を上尾町消防団に改め、常備消防団は中山道をはさんで氷川鍬神社の向かい側にありました。上の写真はその建物です。
目覚ましい市の発展により、常備消防団員の増加と消防署の設置の必要に迫られ、同40(1965)年に国道17号線治いの上町二丁目に消防団本部と消防署を設置し、同58(1983)年に現在の場所に移転しました。
上尾映画劇場
昭和33(1958)年ごろの上尾映画劇場 → 平成10(1998)年の上尾映画劇場跡
上の写真は、昭和33年ごろの「上尾映画劇場」(仲町)です。同劇場は、同27(1952)年から同35(1960)年まで宮業していました。当時の入場料は、大人が70円、作品は時代劇と現代劇の3本立てで、1週間ごとに全映画会社の新作を上映していました。入場者は、平日が平均200人から300人で、テレビがまだ一般に普及していなかった時代、日曜日にはその10倍もの人がやって来ました。多くの入場者でにぎわった映画館ですが、閉館し貸し店舗となった後は、火災で焼失しました。
現在はマンションの駐車場になっています。
上尾駅
昭和32(1957)年の上尾駅(中山道から望む) → 平成10年の上尾駅
明治16(1883)年7月に上野-熊谷間の鉄道が開通し、上野、王子、赤羽、浦和、上尾、鴻巣、熊谷の7駅が営業を開始しました。上野-高崎間が全線開通したのは明治17(1884)年です。駅舎は開設当時のものを昭和10年まで使用し、その後2回の改築を経て下の写真の駅舎になリました。上の写真は昭和32(1957)年11月に駅東口を撮影したものです。
右の写真の駅舎は、昭和44(1969)年6月に完成しました。駅の開設当時、1日平均乗客数は70人でしたが、高崎線開通120周年の平成15(2003)年の1日平均乗客数は4万1,000人です。
上尾駅東口
昭和34(1959)年の駅前通り → 平成10(1998)年
上の写真は、昭和34年6月に中山道から上尾駅に向かって撮影したものです。通りに沿って商店が立ち並んでいます。
東口の姿は、東口再開発事業として10年の歳月をかけて昭和58(1983)年に完成し、すっかり上尾の顔として定着しました。一方、再開発前の昔の様子を想像させるものはほとんどなく、徐々に人々の記憶の奥にしまい込まれていくようです。
上尾警察署
昭和35(1960)年6月の大宮警察署上尾警部補派出所 → 平成10(1998)年の上尾警察署 → 平成22(2010)年の上尾警察署
上尾警察署の前身は、上町一丁目にありました。建物は、昭和35年5月に建築したもので、当時は大宮警察署上尾警部補派出所という名称でした。さらに、同40(1965)年3月には大宮警察署上尾幹部派出所に名称が改められました。上の写真は同35年6月に撮影されたものです。
市に警察署の設置を要望する声が強まり、同45(1970)年10月増築し上尾警察署が発足しました。本町五丁目に移転したのは同47年4月で、跡地には同52(1977)年5月に図書館が移転しました。
平成20年10月22日、新しい庁舎を治安の拠点に、管内の住民がより安全・安心な暮らしが送れるよう決意を新たに上尾市の治安を守る上尾警察署の庁舎落成式が行われました。
上尾郵便局
昭和32(1957)年、中山道沿いにあった上尾郵便局 → 平成10(1998)年の上尾郵便局
上尾郵便局は、明治4(1872)年に郵便取扱駅として発足したことに始まります。その後、昭和25(1950)年に宮本町の中山道沿い(現在の丸広百貨店の一角)に移転しました。上の写真は同32年に撮影されたもので、当時の郵便料金は封書が10円、はがきが5円でした。
昭和45(1970)年に国道17号線治い(宮本町)に移転。同63(1988)年5月に現在の谷津一丁目に移転しました。
成人式
昭和34(1959)年、文化会館(当時)で行われた成人式 → 平成9(1997)年の成人式
上の写真は、市制施行後初めて開かれた昭和34年1月15日の成人式の様子を撮影したものです。現在は文化センターで行われていますが、当時は市庁舎の敷地内にあった文化会館(現市庁舎の建設に伴い平成元(1989)年に取り壊し)を会場に行われていました。女性の晴れ着姿は訪問着に羽織の格好が多かったようです。
平成22年成人式
新しいスーツや色とりどりの振り袖に身を包んだ新成人約1500人が参加し、久しぶりの再会を喜び合いました。
今年は2122人(男1077人、女1045人) が大人の仲間入りをしました。
スクリーンに中学校時代の思い出の写真や恩師からのビデオレターが映し出されるアトラクションには新成人から歓声があがりました。
西宮下
昭和45(1970)年、西宮下地内から上尾陸橋方向を撮影 → 平成10(1995)年
昭和45年1月撮影の上の写真は、開通まじかの県道川越・上尾線の西宮下歩道橋付近(この部分は同45年2月に開通)です。
昭和49(1974)年4月には鴨川小学校が開校し、続けて歩道橋も同50(1975)年2月に完成。現在では片側3メートルの歩道に加えて、横断歩道や自転車専用の信号機も設置され、児童は安心して登下校ができるようになりました。
川の大じめ
昭和51(1976)年の大じめ掛け換えの様子 → 平成10(1998)年
上の写真は、昭和51年の「川の大じめ」の掛け換えが行われたときのものです。上尾駅西口の駅前通りを西に行くと、市民体育館の手前の交差点、向かって右手に見えてきます。この「川の大じめ」は、昔から村内に災いが入ってくるのを防ぐために、わらで注連(しめ)を作り村の入り口Iこ飾っているもので、「ふせぎ」と呼ばれる民俗信仰の一つです。
現在も毎年5月15日に地元保存会の人たちの手で掛け換えが行われています。
中山道
昭和33(1958)年上尾駅前の中山道を南に向けて撮影 → 平成10(1998)年、上尾駅前の中山道を南に向けて撮影
上の写真は昭和33年7月15日、市制施行を祝って上尾駅入り口付近の中山道をパレードしている様子を撮影したものです。先導者と自衛隊音楽隊の後に、小・中学生や高校生たちの旗行列が続き、沿道にはこれを見守る大勢の市民が詰めかけました。
中山道は、大正9(1920)年に国道9号になりました。当時は交通量も少なくのんびりとしていました。
昭和37(1962)年に完成したバイパスが国道17号線となると、中山道は県道に変わりました。
仲町から宮本町
昭和30(1955)年、仲町1丁目から撮影 → 平成10(1998)年
上の写真は、昭和30年1月に撮影されたもので、仲町一丁目から宮本町にかけての中山道の街並みです。ほとんどの建物が瓦屋根の木造2階家でした。中央のこんもりとした森の中に屋根だけ見える建物は遍照院、その右隣りの白い建物は中央小学校です。
現在では中高層ビルが建ち並び、昔のままの姿をとどめる建物はほとんどなくなっています。
道路補修
昭和32(1957)年、中新井地区で行われた道路補修工事 → 平成10(1998)年の道路補修工事
上の写真は、昭和32年10月の秋の道路愛護週間に中新井地区の人たちが、地区内の道路の補修工事をしている様子です。当時の道路はすべて砂利道でした。道路の砂利敷きや凸凹直しなどの補修工事は、地域の人たちが各自でリヤカーや一輪車、スコップなどを持ち寄って共同作業で行いました。砂利を連んでいる三輪トラックは、当時としてはまだ珍しく町で所有していたものです。現在では、多くの道路が舗装されました。
弁財付近
昭和34(1959)年、弁財地内で撮影 → 平成10(1998)年、弁財地内で撮影
上の写真は、昭和34年の秋に弁財地内で撮影されたものです。当時の人口は約3万8千人で、市内のいたるところがこのような田園風景でした。この写真は麦のまきつけをしているところです。遠く左側に見える煙突の方向に上尾駅があります。駅から少し、離れると民家や工場などの建物は少なくなり田畑が広がっていました。
現在では駅周辺を中心に建物が建ち並び、昔のような田園風景は見ることができません。環境だけでなく生活も大きく変わっています。
保育所
昭和30(1955)年、馬蹄寺に開設された季節保育所 → 平成10(1998)年の市立保育所
上の写真は昭和30年代、農繁期に平方の馬蹄寺に開設された季節保育所です。農家にとって一年で一番忙しい6月に、保護者が安心して働けるように、市内の数カ所の寺などに開設されたものです。朝8時からタ方の5時まで、3歳から6歳までの幼児が集まって過ごしました。その後都市化が進み、農家も減って季節保育所が開設されることはなくなりました。
現在では市内16の市立保育所で子どもたちが集団生活を送っています。