江戸・元禄時代(1688年から1704年)には、本瓦葺・上瓦葺・下瓦葺の3つあがあったとしるされています。
明治7年 3つが合併して「瓦葺村」ができる
「瓦」 河原からきているとされています。近くの綾瀬川を指しているのではと、言われています。
「葺」 「フケ」が転化した言葉でフケとは、深田とか低湿地と言う意味がある。
瓦葺は一面沼地でした。江戸との間を綾瀬川や見沼代用水を船が荷を積んでいったり来たりしていたそうです。
団地の東側約半分は、もとの水面よりも5メートルほど高い土地でした。(標高15メートル)この土地は1965年(昭和40年)に発掘調査が実施されています。その結果昔の人の居住跡が70軒(そのうち60軒は、弥生時代後期から古墳時代初期に属する)確認され、この遺跡を尾山台遺跡と名付けました。
場所 尾山台団地 5-7の横
遺跡跡
尾山台遺跡で確認された居住跡の規模
大型のもの(8メートル)が14軒
中型 16軒
小型 30軒
柱の穴 4本柱 小型の場合は 1本から2本
住居跡 かまどのの跡や貯蔵穴(お米などをためていた穴)などもあった。
土器 古いものは弥生式土器 新しいものは 古墳時代前期の特徴があり。
本遺跡からは、旧石器時代、縄文前期、古墳時代後期、平安時代の住居跡や遺品が検出。
原市地区の瓦葺、綾瀬川と見沼代用水とが交差させるために掛けられた。
8代将軍 吉宗が新田開発のため伊沢弥惣衛為永に見沼代用水の開削を命じる。
利根川から水を引き、全長60キロの代用水を引く。物資輸送の手段としても利用。
上尾市の瓦葺で綾瀬川の上を通って西縁用水 東縁用水にわかれて見沼の新田におくられた。
1727年につくられる(木製)
綾瀬川の上に橋をかけてその上を用水が流れる掛樋(かけどい)というかたちでした。
約50メートル、内幅7月2日メートル、高さ1月8日メートル
1908年(鉄製に作りかえられる。
1961年 見沼代用水が綾瀬川の下をくぐる伏越(ふせごし)の形になる。