「ぐるっとくん」を「中分三丁目」で下車すると、すぐ南の方に「東栄寺(とうえいじ)300メートル」の案内板が目に付く。案内板に従い、台地の溺(おぼ)れ谷を左に見ながら西南に進むと、もうそこに東栄寺の森が見えてくる。東栄寺は「小谷山(しょうこくさん)」と号する曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院であるが、山号のごとく南面に谷を見下ろし、台地上に立地して広い境内地を擁している。
山門をくぐると、本堂前にイチョウの大樹があるのが目に付く。巨樹を迂回(うかい)して参拝することになるが、本堂の向かって右側には伽羅(きゃら)の老木が座しており、参拝者を迎えてくれる。
東栄寺は寛永7(1630)年に開創(かいそう)と門前の案内にも記されているが、開山(かいさん)は入間郡渋井(しぶい)村(現川越市)の蓮光寺(れんこうじ)第9世楚庵(そあん)といわれている。麓庵は寛永18(1641)年に没しているが、開基(かいき)は名主を勤めている矢部家の祖・甚右衛門(じんえもん)で、慶安3(1650)年に没している(『新編武蔵風土記稿』)。東栄寺が創建されたころの中分地区は、藤波村の内であったとみられる。天正18(1590)年徳川家康が関東に入国したとき、石戸領は有力家臣の牧野半右衛門(はんえもん)に与えられ、その知行書立(ちぎょうかきたて)に「ふちなみ(藤波)・こいつみ(小泉)」とあるが中分の地名はない。また慶安期に編さんされた『武蔵田園簿』には「藤波村」とあるが、中分村の名はないので分村したのはそれ以降ということになる(『上尾市史』第3巻)。
東栄寺の本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)であるが、左右に普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)菩薩を配した江戸中期の作といわれている。曹洞宗の寺院なので、開祖道元禅師(ぜんじ)の座像が納められているが、楞厳寺(りょうごんじ)と同じく瑩山(え<け>いざん)禅師の座像も祭られている。同寺には多くの仏像が納められているが、注目されるのは「新秩父霊場観音菩薩像」11躯(く)が祭られていることである。札所巡りは中世期以来盛んであるが、「新秩父霊場」は弁財村井上五郎右衛門の発願(ほつがん)で享保8(1723)年に設けられている。東栄寺は結びの34番札所なので、おそらく新霊場開設とともにこれらの観音像も祭られたものとみられる(前掲書・『上尾市史』第9巻)。
本堂の西側の墓所には歴代住職の墓域があるが、そこに開山楚庵の墓もある。また、その奥に開基の矢部家の墓所がある。矢部家は旗本牧野氏知行地の代官名主的な地位にあるが、中分村だけの名主で、幕末期に活躍した矢部善兵衛(ぜんべえ)の墓も隣接してあり、辞世の歌が子孫によって刻まれている。
本堂前の広い境内には、年月を刻んだイチョウの大木などが趣を添えている