「ぐるっとくん」を「弁財二丁目」で下車すると、すぐ目の前に昌福寺(しょうふくじ)の山門が見えてくる。山門前に枝ぶりの良い老松があり、根元には「不許葷酒入山門」(葷酒山門に入るを許さず)と大書した石柱があり、まず参詣者の気持ちを引き締めてくれる。山門をくぐり、本堂前に進むとモクセイの大樹があり、夏季には自然の涼を参詣者にもたらしてくれる。花の頃はさぞ芳香が境内に満ち溢れることだろうと、想像をたくましくさせる見事な樹形である。
昌福寺は曹洞(そうとう)宗の寺院で、元禄11(1698)年の弁財村明細帳でも寺領10石と記されている古刹(こさつ)である。山号は大谷山と称するが、これは弁財村がかつて「大谷郷」のうちにあったことを示している(『上尾市史』第3巻)。開山は喜翁瑞和尚で、天文5(1536)年9月10日に没しているので、同寺の創設はそれ以前ということになる。ところが開基は大谷郷の土豪である友光三郎であり、三郎は永正7(1510)年12月4日に没している。三郎の没年からみると、永正7年以前に創設されていたことになる。
同寺は入間郡渋井村(現川越市)蓮光寺の末寺といわれるが、蓮光寺の寺領は7石であり、末寺の昌福寺より少ないという珍しい事例を示している。幕府からの寺領御朱印は、慶長2(1649)年8月に出されている(『新編武蔵風土記稿』・『上尾市史』第3巻)。
昌福寺の本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)であるが、普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)の両脇侍(きょうじ)とともに本堂に安置されている。共に寄せ木造りであるが、江戸時代の作である。同寺は本尊のほか多くの仏像を蔵するが、曹洞宗の寺院なので道元(どうげん)禅師(ぜんじ)の木造も安置されている。これも寄せ木造り・玉眼であり、江戸時代の作である(『上尾市史』第9巻)。
本堂裏側の墓地には、開基である友光家の墓所がある。開基の友光三郎の子孫は後北条氏にも仕えるが、江戸時代には権左衛門を名乗り、沖ノ上村の名主として同村に在住している。墓所には永正7年没の三郎の墓とともに、永正10年没のその妻の墓が並んでいる。墓石は後年の建立とみられるが、永正年号の墓石は市内では類例がない。
友光家の墓近くに、弁財村名主を勤めた井上家の墓所もある。井上家は五郎右衛門を名乗り、前記の元禄期の村明細帳にもその名があり、また享保8(1723)年の新秩父札所発願(ほつがん)にもその名が見られる。この札所発願文書は、昌福寺に所蔵されている(『上尾市史』第3巻)。
昌福寺の山門。右の松の根元にあるのが「不許葷酒入山門」と書かれた石柱