国道17号の「久保」交差点から県道上尾・久喜線を東に700〜800メートルも行くと、左手に少林寺(しょうりんじ)の山門が見えてくる。少林寺は臨済宗の寺院で、神奈川県鎌倉市にある円覚寺の末寺である。
同寺は江戸時代の初めに「門前村」という村名が生じたほどの大寺であり、鎌倉時代の正応元(1288)年創建という市域随一の古刹(こさつ)でもある。寺伝によると同寺の開山は仏源禅師(ぶつげんぜんじ)で、円覚寺の第二世を務めた高僧である。禅師は大休正念(だいきゅうしょうねん)大和尚とも称するが、中国の温州(うんしゅう)(浙江<せっこう>省)の人で、文永6(1269)年10月に来日し、正応2年に没している。ほぼ20年間に多くの寺院の創建にもかかわるが、鎌倉浄智寺も禅師が入仏供養を行ったものである。なお「仏源禅師」の名は、没後の朝廷からの諡号(しごう)である(『新編武蔵風土記稿』・『上尾市史』第9巻)。
少林寺の開山は当時の高僧であるが、開基も当時の有名人で、執権北条時宗の後室(こうしつ)である覚山尼(かくざんに)である。覚山尼は鎌倉の東慶寺の開基ともいわれ、第9代執権貞時の母である。同寺はこのように当時の名のある人物によって創建されているが、鎌倉期の様子を伝える資料は皆無であり、またその後の室町・戦国期の寺の変遷を伝える資料も、残念ながら全く残されていない(『上尾市史』第9巻)。
少林寺は慶安2(1649)年8月に将軍徳川家光から寺領10石の朱印状を受け、以後代々の将軍から朱印状が渡されている。ところが不幸なことに、幕末の文化3(1806)年2月14日に火災で本堂、庫裏(くり)などは焼失し、朱印状も一部を残し、烏有(うゆう)に帰している。このとき住持の要道と召仕の庄蔵が焼死しているが、火中を逃れたのは、数え年9歳の小僧1人であったといわれる。火災を免れたのは鐘楼と山門だけなので、古刹としての諸記録や仏像、仏具もすべて失われたことになる(『上尾市史』第3巻)。
文化3年の火災を免れた山門は、現在市指定の文化財になっている。四脚門(しきゃくもん)、切り妻造りの屋根で、棟高が約4.7メートル余り、比較的大きな建物で、参詣者に荘厳さを伝えてくれる。正面の大虹梁(だいこうりょう)という梁(はり)に「宝暦三癸酉歳」(1753年)と記されており、この年の建築物とみられる。また礎石に寛文11(1671)年の銘があるが、建築年を示す銘文のある山門は少なく、建築様式を示す建物としても貴重である(『上尾の指定文化財』)。
少林寺の山門。四脚門、切り妻造りの屋根で市指定文化財になっている