「ぐるっとくん」を「リハビリセンター入口」で下車し、県道を南へ400〜500メートルも歩くと、上尾市とさいたま市の境界に達する。「さいたま市」という道路標識が見えた所で左折し、やや狭い道路を東へ100メートルほど行くと、右手に「清真寺(せいしんじ)入口」という小さな案内板が目に付く。右折して南へ150メートルも歩くと、もうそこは目指す清真寺の西門である。正門である山門から参拝するには、大きく南へ迂回しなければならないが、山門は現在補修中で閉じられているので、西門からお参りすることになる。
清真寺は大慈山(だいじさん)と号する曹洞宗の寺院であるが、草創は応仁2(1468)年といわれている。前年の応仁元年には、京都で「応仁の乱」が起こっているので、室町中期創立の古刹(こさつ)ということになる。開山(かいさん)は盛庵舜(せいあんしゅん)和尚で、文亀(ぶんき)3(1503)年4月3日に没しており、時代はもう戦国という騒乱の時代に入っている(『新編武蔵風土記稿』)。
ところで清真寺は平方領々家の所在であるが、この地域の北側は上野、西貝塚で、東と南は上野本郷である。そして西はさいたま市峰岸地域である。平方領々家は上野本郷区の東に広い面積が所在するので、清真寺のあるこの地域は飛び地ということになる。現代人には分かりにくい地域名の配置であるが、江戸時代に村が成立したころ数多く見られた事例である。明治期の町村制施行以後、飛び地は是正されるが市域でもまだ残されている例も多い(『上尾百年史』)。
清真寺の本尊は十一面観音で、江戸時代前期の作、像高45センチメートル、寄せ木造りの座像であるが、像内は丁寧にくりぬかれており、像底から胎内仏が納められている。胎内仏も十一面観音の座像で、像高17.7センチメートルという小像である。この胎内仏も寄せ木造りであるが、古色の仕上げで宋風の装いとなっている。造立は室町時代中ごろと見られ、寺院の草創が応仁2年なので、そのころの本尊ではないかとも推定されている。市内の寺院では胎内に結縁文(けちえんぶん)や別種の仏像を納めたものはあるが、同形式の仏像を納めた例がないので、大変珍しく貴重な仏像ということになる。同寺にはほかに多くの仏像が蔵されているが、曹洞宗の寺院なので開祖・道元禅師(どうげんぜんじ)の座像などもある。なお、十一面観音座像と胎内仏は、市の指定文化財になっている(『上尾市史』第9巻・『上尾の指定文化財』)。
清真寺の本堂