「ぐるっとくん」を「藤波公民館前」で下車し、西へ300メートルほど歩くと、住宅と工場にはさまれた右手の奥に忽然(こつぜん)と寺院の山門が見えてくる。50メートルほどで山門に達するが、この寺院が目指す藤波寺密厳院(みつごんいん)である。山門には、鮮やかな「瑞露山(ずいろさん)」と記された扁額(へんがく)が掲げられている。山門の左下には延宝4(1676)年造立(ぞうりゅう)の地蔵尊が鎮座しており、ふくよかな顔で参拝者を迎えてくれる。
山門をくぐり本堂にお参りすることになるが、密厳院は臨済宗(りんざいしゅう)の寺院で、鎌倉の円覚寺(えんかくじ)の末寺である。この寺院は、戦国前期の小田原北条氏と太田氏との争乱の中で名が刻まれた、市域では数少ない遺跡でもある。同寺は元は新義真言宗の古道場であったが、明応(1492から1501)のころ太田道灌(どうかん)の養子資家(すけいえ)が、叔父の叔悦(しゅくえつ)禅懌(ぜんえき)を開山(かいさん)にして堂塔を再興したという。叔悦は臨済宗の僧侶で、後年には円覚寺150世(149世とも)を勤めたほどの高僧である。密厳院本堂西側の墓地の西南端に、後年の建立とみられるが、ひときわ大きな「開山塔」が立っている。それには「天文二乙未七月十六日」(2年は誤りで4年<1535>が正しい)と、中興開山の叔悦の没年月日が刻まれている(『新編埼玉県史』通史編2、『上尾市史』第6巻)。
密厳院が太田資家によって再興されたことは、このころ上尾市域が太田氏の支配下にあったことを示す。太田資家と叔悦に縁の深い寺院に、隣接する川島町表(おもて)の養竹院(ようちくいん)がある。養竹院の境内地は太田道灌の旧陣屋の地といわれ、寺院は叔悦が資家の菩提を弔うために創設したものである。資家の没年は大永(だいえい)2(1522)年で、法名は「養竹院殿義芳」、この法名から「養竹院」の寺院名が付されている。同寺には資家夫妻の宝筺印塔(ほうきょういんとう)が残され、資家の子の資頼(すけより)の画像も所蔵されている。そして密厳院と養竹院を創設した叔悦禅懌の頂相(ちんぞう)も同寺に残されており、高僧の姿を今日に伝えてくれる(前掲書)。
資家の系統は、資頼・資時(すけどき)・資正(すけまさ)と続く岩付(いわつき)太田氏となるが、小田原から北条氏が北へ支配地を広げており、両者は激しく争っている。北条氏はやがて江戸城・河越城を配下にするが、養竹院の創建や密厳院の再興は、太田氏がまだこの地域に勢力を保っていたころの状況を示している。上尾市域にとっては、戦国時代の足跡を示してくれる数少ない寺院である(前掲書)。
「瑞露山」と記された扁額が掲げられている密厳院の山門