「ぐるっとくん」を「西中学校南」で下車して、西方向へ住宅地の歩いて行くと、十連寺(じゅうれんじ)の山門が見えてくる。山門前左側の石柱には、「ほしな山十連寺」と刻まれている。
「ほしな」とは変わった名称であるが、正式な寺号は「干菜山(ほしなさん)光明院(こうみょういん)十連寺」と号する浄土宗の寺院である。縁起(えんぎ)によると、慶長18(1613)年10月、鷹狩りの途次に徳川家康が立ち寄り、小庵であった堂の軒先に菜が十連ばかり掛け干されているのを見て、「『干菜山光明院十連寺』と号すべし」と命じたという。将軍職はすでに秀忠に譲っているとはいえ、大御所(おおごしょ)として時の最高権力者の地位にある家康の命名であり、大変珍しいということになる。それにしても、仏教言葉からの寺名でなく、「干菜山」とは軽妙で微笑ましく、すこぶる機知に富んだ大御所であったということになろうか(『新編武蔵風土記稿』)。
ところで十連寺には家康の書簡が残されており、内容はミカンを贈られたことに対する礼状である。あて先が不明で、内容も把握しにくい点もあるが、ここでも食べ物の名が出てくるとは、不思議な縁ということになろうか。一般に古い記録や文書類には、食べ物の名が出てくることはほとんどない。ところが十連寺の縁起には2つも見えており、大変楽しい話ということになる(前掲書)。
山門から本堂に向かっては、緑の多い境内地を歩むことになる。ちょっと深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)の趣があるが、本堂は鉄筋コンクリートの堂々たるもので、本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)像などが鎮座している。阿弥陀如来と両脇侍(きょうじ)像は江戸時代前期の作で、寄せ木造りである。十連寺は浄土宗の寺院なので、法然(ほうねん)上人(しょうにん)の立像(りゅうぞう)なども安置されている(『上尾市史』第9巻)。
本堂の左手奥の墓所には、市指定の文化財になっている柴田氏父子の墓がある。父の名は柴田七九郎(しちくろう)康忠(やすただ)、徳川家康の関東入国後、埼玉(さきたま)郡で5000石を給された家康の有力家臣である。康忠は文禄3(1594)年に没し、樋ノ口村(現久喜市)に葬られたが、後に子の康長(やすなが)によって移されたという。康長は曲折の後に家を継ぎ、寛永元(1624)年には大谷領3000石の地を与えられ、向山に陣屋を構えている。康長は寛永13(1636)年に没するが、十連寺の幕府朱印状はその子康久(やすひさ)の時代に与えられたものである。康久も同寺に土地を寄進している(『上尾市史』第3巻)。
本堂には徳川家康が命名した「干菜山」の文字が掲げられている