かつては上尾駅東口を出ると、そびえ立つ遍照院(へんじょういん)本堂の大屋根が望見できたが、ビルが林立する現在は垣間見ることもできない。それでも駅から5分ほど歩くと、周囲を圧するような大屋根が姿を見せてくれる。
上町一丁目に所在する遍照院は、江戸時代には寺領20石の朱印地を与えられた大寺である。市内には幕府から御朱印を与えられた寺院は多いが、20石は最高の石高である。同寺は真言宗智山派(しんごんしゅうちざんは)の寺院で日常山秀善寺と号するが、『新編武蔵風土記稿』によると、京都御室(おむろ)の仁和寺(にんなじ)の末寺となっている。同書によると、開山(かいさん)の阿順法印は応永9(1402)年に没しているので、既に室町時代の初めには創設されていたことになる。ところで同書には建治・応安・永享・文明などの古碑があると記されているが、「建治」の年号は鎌倉時代末期のものなので、同寺の創設はもう少し古い時代に関係するとも考えられる。現在これらの古碑は確認することができないが、それでも宝篋印塔(ほうきょういんとう)の中には「康応元年」(1389)の年号も読み取ることができ、南北朝時代に何らかの関係があったことをうかがわせる(『上尾市史』第9巻)。
天保9(1838)年の村絵図では、同寺は広大な境内地を持ち、参道は旧中山道から山門に直進する形で描かれている。旧中山道には家並みが記されているが、この辺りは上尾宿と上尾村の地が、牙のように交互に入り組んでおり、遍照院は上尾村分である。文政11(1828)年の記録によると、上尾村分には42軒の商家・旅籠屋などが見られるが、遍照院門前にも多くの商家があり、中には当時から現在なお営業している豆腐店などもある(『上尾市史』第3巻)。
遍照院の本尊は不動明王で江戸時代の作であるが、木造毘沙門天(びしゃもんてん)立像(りゅうぞう)の制作年は古く鎌倉時代末から南北朝期と推定される。この像の厨子(ずし)扉内側にある朱字銘には、「岩槻城主大岡越前守忠正公守本尊」とあり、由緒のある立像であることを伝えている(『上尾市史』第9巻)。
墓地の中央最北端には歴代住職の墓石が並ぶが、その近くに市指定文化財(史跡)の山崎武平治碩茂(ぶへいじせきも)の墓がある。その対面には上尾宿本陣を勤めた林家の墓所があり、これは「寛永」の年号も見られる市内では古い墓石群である。また近くには「孝女お玉の墓」もあり、旧中山道の宿場でにぎわった往時の一面ものぞかせてくれる。
以前はJR上尾駅東口から望むことができた遍照院本堂