旧上野村と上野本郷村は本来一体の村を構成していたとみられるが、「本郷」という中心の村ともいうべき地区が他の地区より小さいことが注目される。江戸時代の書誌では、上野村は平方領ではなく大谷領と記したものもある。東に隣接の平方領々家村は、その名のごとく平方領なので、上野村が平方領を分断する形になっている。一般に近世期の「領」は地続きであり、分断されている例は大変珍しい(『新編武蔵風土記稿』)。
県道の交差点から百五十メートル程歩き、右折して西方の「上野集落センター」を目指す。二百メートル程で到着するが、この辺りは地区の中心地で、屋敷森のある家も数多く所在する。ところで上野・上野本郷とも神社は小祠(しょうし)のみで、余り見られない。これは明治末年の神社合祀(ごうし)運動の中で、合祀が進展して旧村の中に神社が見られなくなったためである。上野村の鎮守は、神明(しんめい)社、上野本郷村は稲荷(いなり)社、明治四十一年五月一日に平方村の氷川社と合祀されて、社名も「橘(たちばな)神社」となっている(『上尾市史第九巻』)。
「上野集落センター」付近を散策して、東南に三百メートルも歩くと元の境界線上の道路の延長となる。右折し西南方向に三百メートルも歩くと東西の広い道路と交差するが、道路を横切りさらに歩くと、この辺りが上野本郷の中心地である。集落内を散策していると自警消防団の消防器具置場があり、広場の隅に文化六(一八〇九)年建立の庚申塔(こうしんとう)を見ることができる。この庚申塔には「導師 清真寺拾一世」とあり、隣村の平方領々家の寺院の住職が導師になっていることは、大変珍しい事例ということになろうか。