原市新道角の医家は江戸末期にも開業しており、嘉永二(一八四九)年に将軍家定の奥方となる一条家の寿明姫が下向した時、同行した医師の高階丹後守が宿泊している。同じ医家ということで宿所になったとみられるが、姫君随行の医師団であり供の者も多かったと思われるので、その対応は大変であったとみられる。姫君下向の資料が少ない中で、医師の宿泊という珍しい事例ということになる(『上尾宿上尾村関係小川家文書』)。
右折して八十メートルも進むと、小さな交差点があり、今度は左折して北上する。百メートルも歩くと、右手にマンションが林立している。ここはかつて酒蔵業を営んだ家の酒造の跡地で、上尾宿で生産された銘酒の一つでもある。明治初年の資料によると、上尾宿全体で清酒二百六十石(約四十六・八キロリットル)を生産しているので、当時としては「清酒の町」であったことになる。これは一面では、酒造に適した地下水に恵まれた土地であることを示していよう(前掲書)。
元酒造業者宅前より百三十メートルも歩くと、上尾小門前の交差点となる。明治初年の地図では、この交差点から上尾小校地の西南を廻り、二ツ宮氷川社前に達する道が描かれている。この道路は氷川社西南で鎌倉街道と合流し、下平塚村に達する道である。庚申塔の道標では「幸手道」とあるので、中山道から幸手宿(幸手市)への主要な道路であったとみられる(『迅速測図』)。
上尾小前の交差点から三百メートルも歩くと、県道上尾停車場線の交差点である。それよりさらに百八十メートルも北上すると、遍照院(へんじょういん)の門前である。同寺は江戸時代二十石の御朱印を与えられた大寺であるが、この辺りは中山道に面した土地でも上尾村分である。ここでは上尾宿と上尾村の地番が入り組み、外部の人には大変分かりにくい。上尾村が上尾宿の加宿(かしゅく)と呼ばれたのも、このような事情によるとみられる(『上尾市史第三巻』)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)