「ぐるっとくん」を原市の「上新町」で下車すると、目の前に東上する細道が見える。この一条の道は、原市沼を渡り、隣接の旧丸山村(伊奈町)に達する道である。左折してこの細い道を歩くが、道路の南側は原市台団地などがあり住宅地化されているが、北側には古くからの屋敷森のある家や畑地もあり、昔日の面影を伝えてくれる。道は少々曲折しているが、五百五十メートルも歩くと原市沼北端に架かる「沼橋」に着く。沼の上流は原市沼川であるが、源流は四キメートル北方の上尾市・桶川市境である(『上尾市地形図』)。
江戸時代の初期には小室郷丸山に伊奈(いな)忠次(ただつぐ)が陣屋を構え、一万石の所領を持ち、徳川氏の関東支配に敏腕を振るっていた。一方原市沼の西側では、上尾下村に西尾(にしお)吉(よし)次(つぐ)の陣屋があり、こちらは五千石の知行地(ちぎょうち)であるが、有力旗本として徳川氏を支えていた。両氏が原市沼を挟んで陣屋を構えたことは、陣屋に適する地形ということもあるが、この地域が江戸城周辺の重要拠点の一つであったことをうかがわせる(『上尾市史第三巻』)。
沼橋から河岸の細い道を歩き、原市沼川の遡行を試みる。北方へ二百五十メートルも歩くと、広い上尾環状線の道路と交差する。ここにある橋が「柳津橋」で、原市沼川の東側には小室郷の丘陵があり、その一部に現在は県立がんセンターが所在する。原市沼川の西側は旧平塚三村の丘陵地であるが、川沿いのかつての水田地帯も今は埋め立てられている。柳津橋の左手前方に、下平塚村の稲荷社が見えるので参詣してみる。橋より百五十メートルほど西下し、右折して七十メートルも北上すると稲荷社に着く。この神社は台地の突端の位置に所在するが、土地の古老の話によると、明治四十三年の大洪水の時は南方の綾瀬川と原市沼川の合流口より大水が押し寄せ、たちまち原市沼川の谷は水面下になったという。その時、稲荷社の鳥居の先端が少々見えるほどの水位であったという。利根川・荒川の堤防決壊による大洪水の恐ろしさを、土地の古老はこのように伝えてくれる(前掲書)。
柳津橋に戻り、原市沼川を北上する。県道上尾・蓮田線に架かる「平塚橋」に近づくに従い、かつての水田地帯も現在工場・グラウンド・学校敷地と変化している。それでも溺谷を形成する東西の丘陵にはまだ広大な森林が残っており、遡行する人に見事な景観を見せてくれる。柳津橋から平塚橋まで、約八百五十メートルで到着となる(「前掲地図」)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)