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■上尾の古い地名を歩こう34 〜寺子屋師匠の墓所に詣でる(平方)〜  

 「ぐるっとくん」を「平方公民館前」で下車すると、道路西側に目指す「観音堂」がある。この観音堂は江戸時代には天台宗正覚寺(しょうかくじ)であったが、明治初年に廃寺になったものである。現在寺子屋の師匠の墓所が多くある所として知られ、「正覚寺寺子屋遺跡」として市の文化財にも指定されている。堂内には六基の筆子塔(ふでことう)があるが、比較的古い正徳三(一七一三)年建立のものもあり、上尾市域では大変珍しい。この筆子塔は「純智(じゅんち)」のものであるが、寺子屋の教え子である筆子たちが建立したものである。この筆子塔(塚)には「施主平方村、手習子(てならいこ)五十三人」とあり、古い呼称である「手習子」の文字が刻まれているのは、県内でも数少ない例である。六基の筆子塔のうち、一番新しいものは天保十二(一八四一)年没の円純(えんじゅん)のものであるが、これらの例から見ると正覚寺では長い期間にわたり寺小屋が開かれており、上尾市域では大変珍しい(『上尾の文化財』)。

 観音堂には森朴斎(もりぼくさい)碑と同氏墓所があることでも知られている。森朴斎は元桑名(くわな)藩士で、弘化年中(一八四四〜四八)に名主の永島氏宅に寄留したといわれる。永島氏は朴斎の学識の深さを知り、地域の若者に教えてもらうため屋敷内に学舎を建て、以後十数年にわたり三百人余りの若者たちを教えたという。上尾市域では珍しく師匠が元武士で、しかも寺子屋ではなく大人の若者を対象にした私塾であったことが注目される。朴斎は万延元(一八六〇)年に五十四歳で没しているが、生活や身なりに頓着せず、地域の人々から大変親しまれたといわれる。朴斎碑と墓所は共にし指定文化財になっている(前掲書)。

 観音堂東側の道は、主要地方道さいたま鴻巣線であるが、この道路を南下し三百メートルも歩くと上尾中堀川に架かる「天沼(あまぬま)橋」となる。上尾中堀川は台地中に溺れ谷(おぼれだに)を形成しており、観音堂付近から見ると標高に五メートルほど較差があり、台地の中の谷津の景観を呈している。上尾市域は平坦な地形が大部分で、その点珍しい景観ということになっている。上尾中堀川沿いは、かつては深田(ふかだ)が展開していたが、現在は運動場ができたり住宅も進出したりして変化している。それでも上尾中堀川に沿って一キロメートルも歩いてみると、古くからの景観に接することができる。この溺れ谷の景観は、江戸時代の平方の俳人たちが上尾中堀川沿いを逍遥(しょうよう)したという、この地の景勝地であったともみられる(『上尾市史第三巻』、『上尾市地形図』)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)

上尾の古い地名を歩こう34写真



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