「ぐるっとくん」を「北上尾入口」で下車し、線路沿いに百五十メートルも北上すると、県道上尾環状線となる。左折して百メートルほど歩くと、右手に北方に伸びるやや広い道がある。右折し、五十メートルも北上し、今度は左手の細い道路を曲がると、大工場の敷地に沿った道が北西方向に延びている。この道路は桶川市町谷地域を縦断し、上尾市泉台三丁目の交差点につながる道とみられる。現在区画整理され新住宅にもなっているので、古い道路は各所で分断され大変分かりにくくなっている。明治初年資料の町谷・井戸木村の項に「松山道(まつやまみち)」と記されているのが、この断続北西に延びる道路とみられる。また明治初年地図でも、中山道久保村地先から井戸木村北西に達する道が記されている(『武蔵国郡村誌』、『迅速測図』)。
現在井戸木・町谷地域あたりの境界は入り組んでいるが、江戸時代は井戸木村・町谷村共に大谷領で、沖ノ上村の氷川社は、沖ノ上・中妻・井戸木・町谷村四カ村の鎮守である。この例から見ると、四カ村は一体となる地域を構成していたとみられえる。またこの四カ村の地域は山林が多いが、山林の大部分は、近世初期は入会地である。入会地の利用権は近村が持つが、遠方の柏座村などが入り会いの権限を持っている例も見られる。これらの入会地は明治初期までに分割されているが、今でも遠方地域の地番が付されたりして、かつての所有村の名残をとどめている(『新編武蔵国風土記稿』、前掲書)。
工場沿いの道を三百五十メートルも歩き、それより桶川市朝日三丁目を横切り、断続しているが北西方向に歩く。約一キロメートルも歩くと、井戸木一町目の墓守堂(はかもりどう)を見ることになる。ここには多くの石仏があるが、天保七(一八三六)年建立の馬頭(ばとう)観音塔が注目される。背面に「石戸河岸石工(いしく)吉蔵」と刻まれており、これは河岸場に石工が多く住んでいたことの例証である。そして「石戸河岸」(北本市)と井戸木村が結び付いていることは、どうやら「松山道」の所在と関係しているともみられる(『上尾市史第九巻』)。
墓守堂からなおも北西方向に歩くが、道には広狭があり、約六百メートルも歩くと、泉台三丁目の県道との交差点となる。現在この辺りは区画整理されて市街地になっており、明治初期の記録にある「松山道」はすっかり忘れられた存在で、今では大変分かりにくくなっている(『上尾市地形図』)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)