「ぐるっとくん」を「藤波公民館」で下車し、百メートルも西下し、左折してやや南西方向に歩く。区画整理された道路であるが、道は丘陵上から溺れ谷の低地に下がることになる。三百八十メートルほど歩いて、東南方向に歩く。百二十メートルほど歩いて、正面にグラウンドが見えた所で今度は右折する。溺れ谷の低地を歩いて南下すると、道は少々登り坂となる。ここで地域名は藤波一丁目から中分四丁目となる(『上尾市地形図』)。
近世の上尾市域の村々は、荒川などの河川敷の肥沃(ひよく)な土を肥料として購入し、畑に入れている。元文二(一七三七)年の『上尾宿御書上』にも記されているので、広い範囲にわたり実施されていたとみられる。藤波・中分・小泉・井戸木地区は近接の石戸領々家村と協定し、毎年荒川の土を買い入れている。この辺りではこの堆積土を「やどろ」と呼んだりしているが、長年の土入れでどの村も大変肥沃な畑地になっている。これも先人たちの汗の結晶で豊かな耕地が造成されたことになる(『本町小川家文書』、『上尾市史第六巻』)。
戦前から畑地の多い上尾市域は、大麦とサツマイモの特産地として知られていた。特に大麦の質は高く、市場でも高値が付けられたといわれる。本来上尾市域の畑地はローム層の赤土で痩せた耕地である。先人たちはこの耕地に腐葉土を入れ、木灰(きばい)を投下し、そして「やどろ」まで購入して土造りに励んだのである。大麦の大産地になったこともその先人たちのたまものである(『上尾百年史』)。
溺れ谷から中分四丁目の台地に登れることになるが、この辺りの近世の小字は「袋(ふくろ)」である。右折して五百メートルも歩くと、工場の建物が見えてくる。工場敷地の角を左折して東上すると、屋敷森の農家群を見ることになる。この農家群の中に、旧中分村の名主の矢部家がある。この家には多くの古文書が残されているが、特に県内でも珍しく、天保期(一八三〇〜四四年)の農業収支の記録が所蔵されている。数年にわたる連続記録で、しかも収量やその売上高、投入肥料まで記した資料は県内でも例がない。資料中にはサツマイモの作付があるのも注目され、紅花が大量に生産されているのも目を引く。肥料を大量投下して、「土作り」に励んでいる様子も資料からうかがうことができる(『上尾市史第三巻』、『中分村矢部家文書』)。
(元埼玉県立博物館長・黒須茂)